【布袋山について】

休眠山鉾は、現在、鷹山、布袋山の2つあります。布袋山は宝暦年間(1751〜64年)には、巡行に参加していなかった模様です。で、天明8年(1788年)の大火に依って京都の80%が焼失しました。その時、布袋尊と2童子を残し、布袋山の曳き山は焼失しました

【町内探訪】姥柳町欄に掲載の資料へ

掲載記事から抜粋しました。布袋山がある、『姥柳町』についての解説です。


第四回 姥柳町

「京都坊目誌」によれば町名起源、不詳、布袋山町と言ふ。
慶長以来毎年、祇園會に布袋の像を安せる山棚を出す。

像は支那の梁の高僧・布袋師、名は契此(かいし)、長汀子
(ちゃうていし)と號す。明州泰北県(みんしゅうほうほくけん)の

人(浙江省北東寧波にんぽう)。古くから遣唐使以来の対日
貿易港として榮えた地。今の本尊は支那伝来の白青瓷に金

銀青丹を施した洵(まこと)に優れた磁器であり高さ五寸の座
像左右に唐子童子あり古来天魔厄神を除き寿福を増して子

孫を繁栄せしめるものとして信仰されている。八坂神社記録
によれば明応九年 (1500)に「十九番 布袋山四条坊門町と

室町と間也」とあり、巡行に参加、以来飾山として行列に出
ず。天明八年山棚類焼し、像のみ傳へて今に存す、応仁の

乱以前には浄妙山を出し、これはのち骨屋町に移るが、更に
布袋山を出している。廃絶後は長刀鉾の寄町として地ノ口米

八斗を納めた。因云(よりていわく)祭日七月十七日、二十四
日とす、蛸薬師通を区域とし。同通以南松原に至るを十七日

(先祭)とし、同通以北を二十四日(後祭)とす。共に氏子名町
は名家の筆による屏風を陳列往来の人を観覧せしむ、其の

装飾極て美を競ふ、都下一の大盛況とす。この記録をもって
いかに姥柳町が京都祇園會の一大中心地であった事が、推

察されよう。 布袋山は大津祭、岐阜高山祭、小浜放生会、弘
前ねぷた祭等全国に多くの影響を及ぼした。懸装品見送、

布袋「唐子喜遊図」は川島甚兵衛「名品図譜」に所収・所蔵さ
れている。明代綴織、ZZ組織とする超極上優品であり、この

タペストリーの復元製作の日が訪れることを期待される。この
地には南蛮寺遺跡があり、平安京内にも含まれ中世以降は

京都の商工業の中枢地であり、16世紀にはすでにヨーロッパ
では知られた町名であった。耶蘇会の宣教師たちが、しば

しば、日本通信のなかで紹介し、南蛮寺の名で親しまれてい
る会堂があったことはあまりにも名高いことであった。オルガ

ティーノ、フロイスが中心となって信長の庇護のもとに建設さ
れたもので1575(天正三)年に着工、1576(天正四)年献堂

式をおこなっている。狩野元秀がえがいた「京名勝図」扇面図
によって会堂の構造や庇護の一端をしのぶことが出来る。珊

太満利亜(さんたまりあ)上人の寺とも呼ばれ京都における
キリスト教と南蛮文化の中心となった。このことにより この

周辺の町家の生活と文化美意識が広く深くなり山鉾町に渡
来懸装品が多く輸入されることとなる。天正十五年(1587)

九州征伐を終えた秀吉は宣教師追放故令を発し、キリスト教
弾圧に転じ、南蛮寺もこのときに破壊され、ついにこの地に

は復興されなかった。朱印船貿易史権威 川島元次郎名著
「南国史話」─銭五の密貿易船の行方を尋ねて─(川島

義明蔵)考え合わせ十六世紀「イーリアス」図タペストリー五
枚 渡来の謎について考察すればまことに歴史とロマンに満

ちた町である。最近北国新聞記事、十六世紀の南蛮寺二一
世紀の金沢城共通する「建築家 高山右近」時空を越えた

二つの建物がよく似ている。金沢城の「三階建」「入母屋」
「黒隔柱」と唯一共通するデザインと雰囲気を京都の南蛮寺

にみることが出来る。右近の巨大な遺産であると紹介されて
いる。元明倫小教頭松本利治先生(昭和27・4~33・3在籍)

大著、「京都町名変遷史」には姥柳町は我国における西欧
文化の中心であり京洛における先端的な存在であった。

明治~大正元年、室町の大家吉田忠三郎家(吉忠㈱)、
藤井善七家(丸池藤井㈱)、大店成宮喜兵衛商店、伊藤産

業㈱(松坂屋)等が存在していた事が記されている。昭和40
年代よりビル化に変貌その跡地にはテナントビル、和装呉服

商社・駐車場等になっている。来年(平成16年度)七月には
一時中断(七年間)していた飾山が新築マンション業者の御

好意と援助により復興出来る事になった。この支援に対して
甘受することなく 山鉾町として又、三十三基めの平成の山と

して再興することを待望するものであります。

(京都町衆文化研究所・川島義明 識)


京都倶楽部】布袋山欄に掲載の資料へ

掲載記事から抜粋しました。布袋山がある、
『布袋山』についての解説です。


祇園祭 -布袋山- (蛸薬師通室町~新町)

八坂神社記録に明応9年(1500年)「19番 布袋山四条坊門
町と室町と間也」とあり、巡行に参加。 宝暦以来、飾山として

行列に出ず、天明8年(1788年)山棚類焼し、像のみ伝えて
今に存す。 応仁の乱(1467~77年)以前には浄妙山を出し、

これは後、骨屋町に移るが、更に布袋山を出している。 廃絶
後は長刀鉾の寄町として地ノ口米八斗を納める。 像は支那

の梁の高僧・布袋師、名は契此(かいし)、長汀子(ちゃうて
いし)と號す。 明州泰北県の人(浙江省北東寧波)。古くから

遣唐使以来の対日貿易港として栄えた地。今の本尊は支那
伝来の白青瓷に金銀青丹を施した洵に優れた磁器であり、

高さ5寸の座像左右に 唐子童子あり古来天魔厄神を除き寿
福を増して子孫を繁栄せしめるものとして信仰されている。

布袋山は滋賀大津祭、宮城村田布袋祭、岐阜高山祭、小浜
放生会、弘前ねぷた祭等、 全国に多くの影響を及ぼした。

懸装品見送、布袋「唐子喜遊図」は川島甚兵衛「名品図譜」
に所収・所蔵されている。 明代綴織、ZZ組織とする超極上

優品であり、このタペストリーの復元製作の日が訪れることを
期待される。 細川家・永青文庫(東京)蔵「祇園祭礼巡行図

巻」には被り物で 布袋さんが参加している様子が描かれて
いる。 大津祭、宮城布袋祭にも被り物で巡行が行われてい

る。(大津祭は居祭)京都祇園祭もこのような史料に基づき
巡行に参加し、祇園祭の中心である庶民信仰の布袋祭が 新

たな形態で復興をはかりたいと存じます。 何卒の御協力、
御支援を賜りますようお願い申し上げます。

布袋山保存会 会長 川島義明



【e-KYOTO】休み山欄に掲載の資料へ

【布袋山の粽と護符】



【布袋山の朱印】


ビルの1Fにビルトインで【布袋尊様と童子2人】が
お祀りされています。(祇園祭の宵々々山~巡行日)




【2006年(平成18年)7月16日】、川島義明会長が関西
TVに出演しました。その放映番組から動画を抜粋し、

編集しました。『布袋山 復活にむけて』




【あるいてゆこう布袋山β】さんのサイトに掲載された、
布袋山の居祭りの様子記事からの抜粋です。年代的

にも古くて価値がある提灯、復元された懸装品とかが
飾られています。


















両脇に童子を従えた、御神体の【布袋尊様】です。
(前面ガラスを開いて撮影しています。)




【2011年(平成23年)8月23日】に、布袋山の布袋尊像を
調査するために京都市の文化財保護課から調査員が

来られました。鑑定の結果、布袋尊像は磁器製ではなく、
木製だと云うことが判明しました。




ページトップへ